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  • 連載【対決!! 葛飾北斎「富嶽三十六景」VS歌川広重「東海道五十三次」】第3回「旅立ちの前にちょっと」

第3回:「旅立ちの前に日本橋の三井越後屋さんでお買い物でもご一緒に」

「富嶽三十六景1江戸日本橋」:<br />
富士山の右に江戸城が見えますがこれは天守閣ではありません。江戸城天守閣は明暦の大火(1657年)で焼失し再建されていませんので、富士見櫓か伏見櫓かと推察されます。
「富嶽三十六景1江戸日本橋」:
富士山の右に江戸城が見えますがこれは天守閣ではありません。江戸城天守閣は明暦の大火(1657年)で焼失し再建されていませんので、富士見櫓か伏見櫓かと推察されます。

ようこそいらっしゃいました、有難うございます。コラム#2の最後のクイズの答えは如何でしたでしょうか?

そうです、COREDOは三井さんが作ったCORE+EDOの造語です、「日本橋こそ江戸の中心」。伊勢松坂の三井高利(たかとし)が江戸・日本橋に三井越後屋を開いたのは17世紀(越後屋ですが新潟は関係ありません)、その後金融業(両替商)にも進出、これが現代の三越・三井銀行への発展の礎(いしずえ)となり、三井高利は三井財閥の祖となります。こんなことを三井の方に申し上げたら袋叩きに会うこと必定ですが「高利」は別の読み方(訓読みではなく音読みで)もできますがやはり先見の明がある方だったのでしょうね。三菱さんは丸の内・大手町が中心で、岩崎弥太郎の活躍は幕末~明治ですので三井さんからすれば創業は三菱さんとは200年もの差、やはり「江戸の中心は日本橋」と訴求したかったのでしょうね。(三井不動産のウェブサイトの2018/10/15のニュースに掲載されています。)

江戸に進出したのはいいのですが三井さんにも苦しい時期があったのでしょうか、確か番頭さんだったかと記憶していますが、隅田川の向こう岸(向島)を歩いていて三囲神社に巡り会ったのです、「こここそが三井を守ってくれる神様だ!」ということで三囲神社はそれ以来三井家の守り神で、そして今でも三越本店・銀座店の屋上には三囲神社が分祀されています。寄ってみて下さい。

「何を言っているのか分からない!」という向きには三囲神社の「囲」という字を分解してみて下さい。三井の「井」を□で守っていますよね。

三囲神社には、後程ご説明する三井越後屋本店での給茶サービスで使用した茶釜などを置いた大きな石の台が今でも残っているのですよ。これ以外にも歴史好きの方には狭い境内に見どころ一杯ですので是非とも一度お尋ね下さい。近くには江戸時代から桜餅で有名な長命寺が今でも営業していますし、牛島神社や言問い団子なども歴史の残り香に溢れています。

長命寺の桜餅(ここにも上方との違い)           珍しい三囲神社の三柱鳥居

「富嶽三十六景2江都駿河町三井見世略圖」(下左)の駿河町とは(静岡の家康公所縁の)駿河では富士山が仰ぐように見えたので名付けられたと言われています。職人が屋根瓦を交換していますが、この建物が三井越後屋の本店、現在は旧三井銀行本店です。残念ながらこの様に富士を拝むことは出来ませんが、想像力でお楽しみ下さい。それが歴史散策の楽しみの一つです。

「富嶽三十六景2江都駿河町三井見世略圖」       「明治時代の三井越後屋店内」

三井越後屋は呉服屋です。呉服とは絹織物のお召し物で、中国の呉の時代に絹織物の技術が日本に渡来したことから呉服と呼ばれると言われています。市井の町人は「太物(ふともの)」と呼ばれる木綿の着物を着るのが普通で呉服などはせいぜい古着が買えて御の字だったらしいです。呉服屋に来るのは羽振りのいい町人や豪商、旗本・御家人と呼ばれるお武家さん。お武家さんと言いましても「知行取り」と言われる領地を与えられるお武家さんよりも「蔵米取り」という現物(米)で給与を貰うお武家さんの方が数倍も多かった(この幕府がお米を貯蔵したのが「浅草御蔵」と呼ばれた米蔵で、その米を取り扱った商人が集まっていたのが「蔵前」という地名で現在も残っています)のですが当時は月給ではなく年俸の1/4を2月と5月に、1/2を10月に受け取りました。とすると呉服を買うにも「支払いはちょっと待ってくれ」ということで掛け売りになります。お店もそこは商売、「お武家様、であれば掛値(利子)をお支払い頂くことになります」という流れに。

三井越後屋は「現金(銀)、掛け値なし」という新しいビジネスモデル、要は「現金でお買い求め頂ければお値段もお安くなります」を始め好評を得ます。それ以外にも

□ 「今までは一反(いったん)単位でしかお売りしませんでしが、これからは端切れでもお売りします」とか、

□ 「ご自宅にお伺いするとお見せできる反物も限られますので是非ともお店にお越し下さい。店員が対面で沢山のお品をご紹介できますし、お仕立ての見本をご覧頂くこともできます」

□ 「湯茶サービスなどもありますので是非とも越後屋にお足をお運び下さい」

□ 「お客様、外では雨が降り始めました、いつお返しになっても宜しいので当店の傘をご利用下さい、勿論お代は頂きません」(傘には大きく三井越後屋と書かれている、それに番号が振ってあるのだが馬鹿っ正直に一、二、三・・・などと連番になどしない。一、五、十、十五・・・などと、そうすれば「今日も越後屋は客入りがいいね」との宣伝効果絶大!

□ 「江戸の世帯数知りたきゃ三井越後屋に聞いてみな」(今では新聞やポスティングのチラシは当たり前ですが、江戸の町では「引札(ひきふだ)」と呼ばれ三井越後屋は上手に利用したそうです。などなどの新しい「マーケティング」を積極的に採用したのです。その「店員の対面販売」は明治の頃でも続けられ、その風景が上の写真(右)ですが、これは結構レアな画像です。

 「富嶽三十六景」は当たり前のことですが富士山が見える場所から富士の雄姿を描いています。その全体像は(少し見ずらい画像で申し訳ないのですが)下の画像が富嶽三十六景の「ロケ地」です。やはり関八州を中心とした富士山の周りと江戸府内が多いですね。

 連載第4回以降でも引き続き個々の作品のご紹介を致しますが、今回は「注意書」を一つだけ申し上げます。「東海道五十三次」も「富嶽三十六景」も、またいずれご紹介する広重の大作「名所江戸百景」でもそうなのですが、決して全ての作品が正しく表現されているわけではありません。勿論多くは現地を訪れデッサンしたうえ作品に取り掛かったのですが、たまに手を抜いて想像で書いたり、「江戸名所図会」から図柄を借りたり、という「お遊び」がありますことはお知り置き下さい。

例えば、下の画像は「40尾州不二見原」です。尾州とは尾張、愛知県名古屋市で町名にも「中区富士見町」とありますが、地球は丸いのでこの地から富士山は望めないという実測をしたTV番組がありました。真偽のほどは私の様な素人には分かりませんが、この大桶を作る職人と富士山の構図は見事としか言いようがありません。この辺りも北斎と広重の違いかも知れません。

江戸東京博物館の展示説明は次の通りです。
「尾州不二見原:不二見原(富士見原)は現在の名古屋市中区富士見町のあたりで、景色のすばらしい場所として知られていました。一方で、この図は、富士見原の風景ではなく、古屋城下の伏見町とされる説もあります。大きな桶の輪の中に小さな富士山が覗く、大胆な構図となっています。田園をへだてて遠望する富士山に注目させられる効果を生んでいます。桶作りに勤しむ職人の姿を描き、富士山もこの作品では少し身近な存在にも見えてきます。」

今回も最後までお読み頂き誠に有難うございます。今回はクイズはございません。次回の連載第4回はまた北斎ですが、作品の中でも「今にも動き出しそうになる躍動感溢れる職人たちの姿」を描いた作品を厳選したうえ、ご一緒致したいと思います。

またスペースに余裕がありましたら連載第1回でご紹介した北斎の不朽の名作「富嶽三十六景21神奈川沖浪裏」についてもご一緒できればと思います。お話は江戸湾を越えて房総で活躍した名工(上方の匠も「関東で波を彫ろうと思うな、伊八がいるから」と言ったとかといわれる)「波の伊八」のお話をご一緒できればと思います。その作品とは、
        「波に宝珠」(武志伊八郎信由:初代伊八 作)
                                 ー 東頭山行元寺(千葉県いすみ市)所蔵の欄間

 

 更にスペースに余裕がありましたら、天才北斎ですら「美人画を描かせたら(娘の)応為(別名お栄)には敵わない」とまで言わせた陰翳と美人画の天才・葛飾応為についてもご紹介差し上げたいと思います。

なかなか、東海道最初の宿・品川に到着しないのですが、ゆったり、まったりとお付き合い下さいますよう。 
        広小路 俗山人 拝

第1回:「
浮世絵で知るお江戸四方山話おもちゃ箱」
第2回「いよいよ日本橋を京に向け出立、その前に少し日本橋について」
第4回「画狂老人・北斎を見る二つの視点:オマージュと画力」
第5回「品川宿は月見と寺社巡りの町」
第6回:「ちょっと一休み、肩の力を抜いて~江戸の女性~」
第7回:「葛飾応為 天才画狂老人の娘 その”光と影”」
第8回:「江戸のお金の話」
・・・まだまだこれから続きます!

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