• トップ
  • イベント
  • 連載【対決!! 葛飾北斎「富嶽三十六景」VS 歌川広重「東海道五十三次」】第4回

連載第4回~画狂老人・北斎を見る二つの視点:オマージュと「画力」~

大層な副題で始まりました連載第4回ですが、いきなり脱線します。
皆さまは「私淑(ししゅく)」という言葉をご存知でいらっしゃいますか?

次の三人の画家がいます。四人目も付け加えます。

       (京琳派)    俵屋宗達 ( ?   ~1643)
          尾形光琳 (1658~1716)

       (江戸琳派) 酒井抱一 (1761~1829)
                          鈴木其一 (1796~1858)

風神雷神図屏風(尾形光琳)







 

 


                           

          


  



夏秋草図屏風
(酒井抱一)

私淑とは中国の孟子の言葉で「子は私 (ひそ) かにこれを人よりうけて淑 (よし) とするなり」から、直接に教えは受けないがひそかにその人を師と考えて尊敬し、模範として学ぶことを言います。

上の風神雷神図屏風は光琳の作品ですが、宗達も抱一も描いています。この三人の画家の生没年を見ますと同時代を生きていません。宗達が風神雷神図屏風(国宝)を描き、光琳は宗達に私淑しそれを模しました(重文)。抱一は光琳に私淑しそれを模しました。三人の間に師弟関係はありません、私淑の関係だけです。(其一については少し流れが違いますので後程。)

抱一は更に光琳の描いた風神雷神図屏風の裏側に上の夏秋草図屏風(重文)を描いています。勿論、風神の裏には秋草、雷神の裏には夏草です。保全の観点から夏秋草図屏風は風神雷神図屏風から分離され東京国立博物館に所蔵されていて別々に鑑賞できます。

其一は抱一の高弟と位置付けられます。私見ですが師へのオマージュとして其一は風神雷神図屏風は描かず風神雷神図を襖にだけ描いています、また其一の別のオマージュの表現として下の朝顔図屏風(メトロポリタン美術館所蔵)で左隻は風神、右隻は雷神をモチーフにしていることにお気付きでしょうか?          

(右隻)
(左隻)

琳派については追って再度ご説明したいと思いますが、一言だけ付け加えますと琳派という言葉は結構新しく1972年に東京国立博物館で開催された創立百年記念特別展「琳派」以降であると言われています。それ以前は尾形流とか光琳派とか呼ばれていたそうです。

 琳派は師弟関係を基本に奥絵師を頂点とする厳格な派を構成する狩野派などとは異なり私淑によって形成されたことがその特徴ですが、私淑とはいかないまでもある作品に大きな影響を受けた、或いは与えた、ということは芸術の世界ではしばしばあることの様に思えます。

 日本が世界に誇る北斎の名作「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」は実は相模湾ではなく房総の海だった?と申し上げたらびっくりしますよね。それはあながち間違いとも言えないのです。下の画像(左)は東頭山行元寺(千葉県いすみ市)にある欄間で伊八作「波に宝珠」と呼ばれています。初代伊八は千葉県鴨川市に生まれ江戸中後期に活躍した彫師で「波を彫らせては天下一」とか、伊八がいるので「関東に行ったら波を彫るな」などと言われました。伊八の作品は欄間を中心に主に南房総に多く見られますが、この「波に宝珠」が北斎にインスピレーションを与えたと言われています。

どうでしょうか?伊八の作品も躍動感に溢れますがそれに影響を受けた北斎の感性・「画力(えぢから)」も天才的ですね。因みに欄間を彫る時は一枚板から立体的に彫ります。かなり厚みのある板から彫り進めるのには大変な意匠力と技術力と胆力が必要と拝察します。これを複数枚で彫り接合しますと伸縮がそれぞれ異なるのでひび割れが起きたりするのですね。                                     

伊八「牛若丸と大天狗」
「倶利伽羅龍」

伊八の「波に宝珠」と北斎の「神奈川沖浪裏」は今にも崩れ落ちんとしている波頭の躍動感と骨太な表現が素晴らしいのですが、上の画像(左)は同じ千葉県いすみ市にある明王山飯縄寺の本堂欄間にある伊八の作品「牛若丸と大天狗」の画像です。これはもう、実際にご覧頂かないとその迫力はお伝えできないのですが、もし北斎がこの作品を見ていたらどんな作品を描いたのだろうかと想像すると、これも歴史巡り・美術巡りの楽しさです。上の画像(右)は鴨川市大山不動の「倶利伽羅龍」で年に一度の火渡り行事の時にだけ公開されます。北斎は遺作・富士山の空を登る龍を始め多くの龍図を描いていますが、それらもこの「俱利伽羅龍」にインスピレーションを受けて描いたとしたら更に素晴らしいことと思うのですが、残念ながらそういう分析はまだ聞き及びません。

 そして北斎の「神奈川沖浪裏」に影響を受けて作曲されたのがフランスの作曲家クロード・ドビュッシーの管弦楽曲「『海』管弦楽のための3つの交響的素描」だそうです。

 1905年に出版された「海」初版スコアの表紙

この海を越えたオマージュ或いはリスペクトの連鎖はその真贋は横に置いても歴史を巡る楽しみだと思えるのです。この例は異なる芸術域(ジャンル)(彫刻・絵画・音楽)をまたがるオマージュの連鎖で、珍しいのではないかと思いますが、絵画の世界では枚挙に暇がありません。網羅的にご案内するほど博学ではありませんので浮世絵とヨーロッパの印象派(ジャポニズム)についてご案内差し上げると、時代的には北斎や広重が活躍した時代から30年ほど後の19世紀後半ヨーロッパの印象派の画家に多大な影響を与えました。日本の風俗などをモチーフにしたものから浮世絵が作品の部品として多用されているもの、ゴッホに至ってはコピーしています。
 

左は広重の「名所江戸百景 夏の部 大はしあたけの夕立」、その30年後にゴッホが模写したものが右です。ゴッホは浮世絵を400点以上も持っていたと言われ、これ以外にも幾つも作品を残しています。

ここで、浮世絵(肉筆ではなく木版多色摺り)と印象派の油絵との大きな違いをご理解頂きたいと思います。これは私見ではなく某美術館館長の講演で紹介された内容です。即ち、「ヨーロッパの印象派の画家が浮世絵を見て何にびっくりしたかと言うと『雨』なのです。浮世絵は彫った版木を摺るのでシャープな実線で雨を描くことが出来るのですが、印象派では毛筆と油絵具なのでそういう線を描くことが出来ないのです。」と。付け加えると広重の作品の雨をよく見ると強い雨と弱い雨が表現されていてそれぞれに版木を起こしています。またゴッホの作品では雨の線が曖昧で大雨或いは霧雨の様に見えてしまっています。プロの彫師は1ミリ幅に3本の毛髪を彫るといいますので、油彩との差は歴然としています。そう思って油彩画を観ると雨の情景の絵は極めて少ないですね。

 先ほど北斎の「神奈川沖浪裏」について「今にも崩れ落ちんとしている波頭の躍動感」という表現を使いましたが、北斎の作品における最大の魅力はこの「今にも○○しようとしている」躍動感にあると思います。「富嶽三十六景」の中でこの躍動感に溢れた作品を何点かご覧頂きたいと思います。それぞれ意図的に絵の一部を拡大してみました。

「東都浅草本願寺」
「江都駿河町三井見世略圖」
 
「本所立川」
「隅田川関屋の里」
「駿州江尻」

この躍動感は一体どこから生まれたのでしょうか?私見としてその「画力」の源は「北斎漫画」にあると思います。北斎の比類のない観察力・描写力が纏められた「作品の部品集」みたいなもので、人間のみならず動物・昆虫・植物などを網羅しているのですが、感心するのは一瞬のカットだけではなく、「パラパラ漫画」の様に絵が動いていく描写が凄いと思います。他の絵師もこの様な部品集は描いていますがその量的な規模と題材の広がりはやはり北斎が断トツと思います。

北斎漫画の例

北斎に比べると広重は前にも申し上げた通り、一つ一つの部品の良さよりも風景が醸し出す「情感」が前に出てきているように思えます。広重の持つ人間を観る視線の優しさとでも言うのでしょうか?

「東海道五十三次 沼津」
映画「砂の器」

江戸博の展示説明「満月が昇ったばかりの黄昏時の街道風景である。くの字に曲がった川の橋向うが沼津の宿で、満月の明るい光が家並みの白壁を一層白く浮かび上がらせる。道が明るく描かれているのも、そのせいである。中央の白装束の男性は、背負った大きな天狗面を奉納する讃岐の金比羅参りの参詣人である。その前を行く二人は、比丘尼(尼の姿で諸国を巡る女の芸人)とその弟子と見られ、お布施を受けるための柄杓を手にしている。」

この「沼津」を最初に観た時の第一番の印象は松本清張原作の映画「砂の器」の一シーンでした。

 浮世絵を鑑賞する時のワンポイント、この「沼津」には江戸博の展示説明にもありますように真ん中少し上に満月があります。浮世絵の彫り・摺りには有線彫りと無線彫りがあります。例えば、月を表現する時、○という枠線を彫るのが有線摺り、○はなく版木の摺りだけで表現するのが無線摺り(よって枠線はない)で、ご想像の通り無線摺りの方が難しいと言われています。その無線摺りを上手く使って早朝のもやっとした景色を見事に描いたのが「東海道五十三次 三島」です。三島神社の鳥居や燈籠、旅人が無線摺りで表現されています。もしそこを有線摺りしてしまうと朝もやの雰囲気も醸し出せませんし、構図が前面に出て奥深さに欠けてしまうと思いませんか?

「東海道五十三次 三島」

こうなってきますと、浮世絵っていったい誰がキープレイヤーなのでしょうか?絵師?彫師?摺師?それとも版元?因みに絵師は絵を描く時に彩色しません。枠線のみ描いて彫師に渡します。その辺りはまた追って。

 なかなか東海道最初の宿・品川に到着しなくて申し訳ないので次回は品川の宿のお話、それと浮世絵が出来るまでの工程と絵師・彫師・摺師がどのような分担で仕上げていったのか、その工程の中で女性の役割は、などについてお話できればと思います。

 北斎には「お栄」という娘がいました。北斎が無精をして名前で呼ばずに「おぉ~い、おぉ~い」と呼ぶので画号は「応為」にしたとか。朝井まかてが応為を題材として『眩(くらら)』という時代小説を書いています。それを原作として宮﨑あおいが応為役として主演したNHKのドラマ「眩 北斎の娘」では北斎の工房が再現されていて興味深いです。北斎ですら「美人画を描かせたらお栄には敵わない」とまで言わせた陰翳と美人画の天才・葛飾応為についてもご紹介差し上げたいと思います、連載のスペース次第ですが。

 この連載第4回をご覧になっておられるのは月遅れのお盆の暑い頃だと思います。体調など崩されぬようお元気にお過ごし下さい。
  広小路 俗山人 拝

第1回:「
浮世絵で知るお江戸四方山話おもちゃ箱」
第2回「いよいよ日本橋を京に向け出立、その前に少し日本橋について」
第3回「旅立ちの前に日本橋の三井越後屋さんでお買い物でもご一緒に」
第5回「品川宿は月見と寺社巡りの町」
第6回:「ちょっと一休み、肩の力を抜いて~江戸の女性~」
第7回:「葛飾応為 天才画狂老人の娘 その”光と影”」
第8回:「江戸のお金の話」
・・・まだまだこれから続きます!

PAGE TOP