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  • 連載【対決!! 葛飾北斎「富嶽三十六景」VS 歌川広重「東海道五十三次」第5回

第5回:「品川宿は月見と寺社巡りの町」

「江戸四宿」については連載第1回と第2回でご案内致しましたが、補足として、それぞれ日本橋から二里の距離にありますが、甲州街道は江戸初めには高井戸にありました。日本橋から四里もあることから元禄期に手前の新宿に移っています。四宿には幕府公認遊郭の吉原とは異なり非公認の遊郭がありましたが、遊女の数では品川は他の三宿の合計よりも多く賑わっていたようです。

 吉原は元々は現在の中央区人形町辺りにあったのですが、17世紀の半ばに浅草に移転しています。以前の吉原を「元吉原」、移転後の吉原を「新吉原」と呼びます。また「北」というとこの新吉原を意味し、品川の遊郭は「南」と呼ぶこともあります。浮世絵の世界では「南」と表現している場合もありますが、直接的な表現を粋としなかった江戸っ子は「美南見」とかの当て字をしている絵もあります。この品川の遊郭を舞台にした有名な古典落語の廓噺に「居残り佐平次」や「品川心中」などがありますのでお楽しみ下さい。

 浮世絵師はこの品川をどの様に描いたのか、何点かご紹介致します。まずこの連載の主題
北斎「富嶽三十六景」、広重「東海道五十三次」では次の二作です。

 

北斎・富嶽三十六景「東海道品川御殿山ノ不二」

(江戸東京博物館展示説明)
「東海道に面した御殿山は海を望む高台でした。江戸屈指の桜の名所であり花の盛りには大勢の人々で賑わいました。本図は桜の情緒とともに花見客の表情やしぐさが豊かに描かれています。左から満開の桜の下で敷物をひいて宴会を開く客ら、眠り込んだ子をそれぞれ負ぶう夫婦、ほろ酔いの武士ら、版元西村屋の商標が入った風呂敷包みを背負う小僧、そしてやや向うの人物たちというように人物が曲線状に連なるように配して工夫しています。桜の枝の間に富士山が見えます。」


 

広重・東海道五十三次「品川日之出」

(江戸東京博物館展示説明)
「大名行列が品川の宿にさしかかる頃、ようやく朝日が顔を出す。ここから品川宿が始まることを画面下方の榜示杭(ぼうじくい)が示しておりその右側には大名行列に道をあけた人達が描かれている。まだ空に残る青さと対照的な濃さで描かれている海には帆を上げて動き始めた舟が碇泊している舟の脇を抜けていく。爽やかな空気の中、江戸は今日も動き始めた。」

 

北斎は御殿山を描いていますが、桜の名所と言えば江戸の中頃までは上野寛永寺だけだったのですが将軍の墓所がある境内での飲酒・鳴り物は禁止されていたため、八代吉宗公が吉野の桜を江戸の墨堤(隅田川沿い)・飛鳥山、そしてこの品川の御殿山に移植して庶民の楽しみの場としました。隅田川花火は両国の花火から始まっていますが、これも吉宗公が始めたものです。質素倹約を信条とした吉宗公はお召し物も木綿です。墓所は上野寛永寺にあります。隣りの五代綱吉公の墓所は青銅製ですが吉宗公は石製です。因みに吉宗公は綱吉公を尊敬していて「吉」の一字を拝領されていますし、墓所も遺言で綱吉公の横にあります。「暴れん坊将軍」が愛されるのもこんなところにあるのでしょうか?

 現代の日本人は桜というとソメイヨシノだと思っています、確かに現代の日本に咲く桜の7割以上はソメイヨシノ(染井吉野)です。名前の通り巣鴨近くの染井霊園の辺りは江戸時代は染井村と呼ばれ植木が非常に盛んでした。染井吉野はその染井村で交配された、それも自然交配ではない人工交配の結果生まれたものです、江戸時代末期のことです。浮世絵(多色刷り木版画)は1765年に誕生していますので初期・中期(厳密な時期の定義はないと思いますが)の浮世絵に描かれる桜は染井吉野ではなく山桜です。

江戸時代の太陰太陽暦は、明治維新後太陽暦に移行したため現代人の我々は「月の満ち欠け」への感性が変化しているように思えます。現代人が都心の街中、郊外の市街地で月を意識するのはせいぜい一年に一回の中秋の名月、建物に囲まれて月を見上げることもなく下を向いて歩いていることが多いのではないでしょうか?

 江戸時代には日めくりや月めくりカレンダーはなく、「来年は大の月(30日まで)は何月で小の月(29日)は何月」という「絵暦」と呼ばれる浮世絵一枚で一年を過ごしました。灯りの乏しい江戸時代、それほどまでに月の明るさに生活が依存していました。それだけに江戸時代の月の満ち欠けの名称はとても豊かで、以下主だったものだけ列挙しますがご存知なものございますでしょうか?

十日夜の月・十三夜月・小望月・十六夜・立待月・居待月・寝待月・更待月・有明月(二十六夜)

遊郭でのお遊びや寄合・呑み会の理由付け?、ともかく色んな月見があるんですね。

江戸時代の品川でも月見の行事が盛んだったようで、「二十六夜待ち」が高輪から品川あたりにかけて盛んに行われました。陰暦正月・七月の二十六日の夜、月の出るのを待って拝む行事で、月光の中に弥陀・観音・勢至の三尊が現れると言い伝えられました。
ちょっと浮世絵で品川での月見を見てみたいと思います。

歌麿「品川の月」


歌麿の「品川の月」は「深川の雪」「吉原の花」とともに「雪月花三部作」の一つで147cmX319cmの肉筆画の大作、歌麿が栃木の豪商の注文で描いた力作です。「深川の雪」は岡田美術館(箱根小涌谷)が所蔵していますが、「吉原の花」はアメリカのワズワース・アセーニアム美術館所蔵、「品川の月」は同じくアメリカのフリーア美術館所蔵の作品です。「品川の月」は所有者の遺言でアメリカの外での展示は叶いませんのでこの三部作のオリジナルを一同に観れるのはアメリカ国内だけになり、何年か前ですがこの三部作がアメリカで公開されました。その後でしたか、岡田美術館所蔵の「深川の雪」と海を渡って来た「吉原の花」の原本、それと「品川の月」の高精度複製が展示されました。素人には原本と高精度複製の違いは全く見極めが出来ませんでしたが、それはそれは見事な三部作で言葉を失いました。

 

広重「名所江戸百景 秋の部 月の岬」


広重「名所江戸百景 秋の部 月の岬」は多色摺り木版画ですので小振りになりますが、襖に映る遊女(芸者?)の影は何とも言えず艶っぽいですね。
 

少し品川の宿を歩いてみましょう。

集合は京浜急行の北品川駅がお勧めなのですが注意が必要です。何故なら北品川駅はJR品川駅の南にあるからです。実話ですが江戸博の展示ガイドボランティアの「品川巡り自主研修」の集合場所を京浜急行の北品川駅にしたのですが、ある同僚が「北品川」は”当然”JR品川駅の北にあると思い込み品川駅からひたすら北に歩いていった、という嘘の様な本当の話がありますので。

京浜急行の北品川駅から旧東海道の品川宿は数分の徒歩圏内です。旧東海道に入ってその幅をどうお感じになるでしょうか?

品川宿の周辺は見どころが沢山あり、それだけでこの連載2回分になるかも知れません(笑)。いつかご一緒に「品川宿界隈巡り」をする企画を検討できればと思います。

もし、お一人で、或いはご友人と散策される場合の、ちょっとした「面白ポイント」をご案内差し上げます。

品川宿は北品川と南品川に分かれています。この「北」と「南」を分けているのは実は目黒川です。歩いてみて街の雰囲気を感じ取ってください。街の人にはお叱りを受けると思いますが、北品川と南品川では街・通りの雰囲気が様変わりします。北品川は品川宿の観光地化に積極的で、それは歩いていてすぐに分かりますが、南品川に移ると普通の街に戻ってしまうのですね。これはそう意識して散策しないと体感できないことです。

北品川と南品川を分けたのは目黒川とご説明しましたが、そもそも、今の目黒川ってどれ? 江戸時代の目黒川って何処にあったの?という頭が朦朧とする問いがあります。

実は、江戸時代、目黒川は今の山手通りでした。ところが明治になり目黒川沿いには経済発展に伴い工場が密集し始めましたが、蛇行する目黒川はそれに加え川幅は狭い、水深は浅いという事で大雨になりますと一帯が水没し地域の社会生活に甚大な影響が出たことから大幅な改修工事が必要となり、結果、大正12年から昭和12年までの長期間の工事により現在桜見物で有名な目黒川の流れになりました。

この目黒川の流れを変えたことによって(元々目黒川の南にあった)南品川の一部が北品川に編入されるという珍現象が起きました。その最も代表が荏原神社で、住所は品川区北品川二丁目です。明治天皇が明治元年に定めた準勅祭社(准勅祭社)東京十二社の内の一つで、他には、日枝神社・根津神社・芝大神宮・神田明神・白山神社・亀戸天神社・富岡八幡宮・王子神社・氷川神社など錚々たる顔ぶれです。伊勢神宮の末社で天王社とも呼ばれています。江戸後期の切絵図(当時の区分地図)で見てみましょう。
 

右上の「8」辺りに「御殿山櫻ノ名所ナリ」とありますが、地図の真ん中を左上から右下を横切っている川が江戸時代の目黒川です。右下の○で江戸時代の目黒川が北品川と南品川の境になっていることが分ります。矢印(←)の先に天王社とありますが、これが荏原神社で「南の天王さん」として親しまれる南品川の鎮守様です。一方、「北の天王さん」は品川神社で北品川の鎮守様です。「6」と「7」の間に天王社とあるのがそれです。

雑学ですが、江戸の切絵図は組版を使った活版印刷ではなく木版摺りですので彫り方で字の角度・方向を自由に変えられます。この「6」と「7」の間の「天王社」の頭一文字「天」は南東を向いていますね。当時の人々はこれを見てその方向に表玄関があることを知りました。これは大きな武家屋敷や寺社で無駄な遠回りをしなくて済む様にした江戸っ子の知恵です。現在はここが結構急な坂になっています。行かれましたら鳥居を見て下さい。「双龍鳥居」(左の柱に昇り龍、右の柱に降り龍が彫刻されている)と呼ばれ、他には杉並区の宿鳳山高円寺境内稲荷と馬橋稲荷神社(阿佐ヶ谷)にだけあり「東京三鳥居」と言われています。

右側の柱 の「降り龍」

 

品川神社 「双龍鳥居」

折角珍しい「双龍鳥居」を観ましたら是非とも階段を上って本殿に向かって下さい。もしくは左手が富士塚になっていますので、3・4分で富士山頂に到達することができます。正面に本殿があり、境内には徳川家の家紋が見られます。家康公は関ヶ原の戦いに向かう途中に品川神社に寄り戦勝祈願をしたと言われています。また家光公は品川神社が沢庵和尚が住職をしている東海寺の鬼門にあたるため品川神社を東海寺の鎮守と定めたと言われています。この様に品川神社は徳川家との関係がとても強い神社です。

 

神社での参拝では普通に正面を見て拝礼しますが、品川神社では参拝の後ちょっと上を見上げてみて下さい。上の写真の円の辺りです。今までの神社巡りでその様な視点で本殿を見たことがないので品川神社だけなのか、他にもあるのか、極めて不確かなのですが、この正面部分に不思議なものをみつけます。写真では分かりにくいのですがそれは天皇家の菊紋と徳川家の葵紋です。さて、この二つの紋、どちらが上にあるでしょうか?因みに「天王社」とか「天王さん」と申し上げましたが「天王」とは祭神の素戔嗚尊(スサノオノミコト)の別名です。

 現在の地図です。北西から南東に
 走るのが山手通り、昔の目黒川で
 す。その西に北から南に流れる青
 い線が今の目黒川です。北品川と
 南品川は目黒川を境に、というこ
 とで荏原神社の住所は北品川、
 これによって品川の鎮守様「天王
 さん」は二社とも北品川にあると
 いう珍現象が生れました。

  切絵図でも分かりますが、北品川
 から南品川に向かって散策(南
 下)しますと右手に沢山の寺社が
 あることに驚きます。左手には海
 が迫っていましたので、右手に集
 まるのですが、中には三代家光公
 と関係の深い沢庵和尚の東海寺も
 あります。東海寺もそうですが、
 品川のお寺は海沿いだったために
「海」が付く名前が多いのも特色です。是非とも高層ビルの立ち並ぶ品川の別の顔を散策し
てお楽しみ下さい。

 現代の地図の右上角「7」と「9」の上辺りが江戸切絵図「8」の御殿山(桜の名所)です。視線を下に移しますと「14」に御台場とあるのが見えますね。これがペリーの再来航に備え江戸防衛の為に江戸幕府が作った品川台場(品川砲台)です。幕府が作ったものですので「御台場」(「御」は幕府や徳川将軍家への敬称)、それが現在「お台場」と呼ばれています。幾つかが実際作られたり、作られなかったり、作られても埋め立てられたりしていますがの「14」のお台場だけは陸続きに作られました。その際に御殿山の土が使われました。この工事の時は東海道に迂回路が作られるなど大変だったそうです。広重は「名所江戸百景」でこれを題材にしています。

 長々としてしまいお詫び致します。まだまだお話したいことが沢山ある品川ですが、スペースの関係でここまでにします。「次回は」と言いながらなかなか前に進まないのですが、今回はちゃんとお約束、「次回は、浮世絵が出来上がるまでの流れと北斎の娘・お栄(応為)について」お話します。

 8月は猛暑でした。今回の連載第5回は9月1日発行です。少しは涼しくなっていると嬉しいですね。  
  広小路 俗山人 拝


 第1回:「浮世絵で知るお江戸四方山話おもちゃ箱」
 第2回:「いよいよ日本橋を京に向け出立、その前に少し日本橋について」
 第3回:「旅立ちの前に日本橋の三井越後屋さんでお買い物でもご一緒に」
 第4回:「画狂老人・北斎を見る二つの視点:オマージュと画力」
 第6回:「ちょっと一休み、肩の力を抜いて~江戸の女性~」
 第7回:「葛飾応為 天才画狂老人の娘 その”光と影”」
 第8回:「江戸のお金の話」
  ・・・まだまだこれから続きます!

 

 

 
 

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