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  • 連載企画【対決!! 葛飾北斎「富嶽三十六景」VS 歌川広重「東海道五十三次」】第8回「~ 江戸のお金の話 ~」

第8回「~ 江戸のお金の話 ~ みたらし団子はなぜ4粒?銭形平次の投げる銭の穴は何故四角?現代の硬貨の穴は何故丸い?

今回はまた連載6回の様に江戸の生活などについてお話したいと思います。食欲の秋、お腹も減りますし、題して、「みたらし団子はなぜ4粒?銭形平次の投げる銭の穴は何故四角?スペースがあれば現代の硬貨の穴は何故丸い?」、という「江戸のお金」のお話です。

 江戸の人達の生活は例えて言えば「(現代の)東京の街で米ドル・ユーロドル・日本円を使い分ける様なもの」と良く言われています。それは生活の中に金貨と銀貨と(銅や真鍮・鉄などの)銭が入り乱れていたからです。簡単に言うと上方は銀本位、江戸は金本位、と言って宜しいかと思います。良好な銀山・金山がそれぞれにあったからと言われています。そして、銭がありました。

時代劇を見ていますと、「両・分・朱」という金の単位、「匁」という銀の単位、そして「○○文」という銭の世界が「貨幣の坩堝」の様に開けています。良くこの様な貨幣の世界で生活できたな、と不思議に思うのですが、それが当たり前だったのでしょうね。

などなどあれ、「そもそも一両って現代の価値では幾らなの?」とご興味をお持ちだと思います。江戸博・近松先生の講演では「一両=12万円としている、キリがいいので」とのことでした。

かなり大雑把な目安としてですが、
       □ 一両 = 四分 = 十六朱
       □ 金一両 = 銀六十匁
       □ 金一両 = 四千~六千銭文

としますと、
       ■ 金一分=3万円 金一朱=7500円
       ■ 銀一匁=2000円

そして、一文は20円~30円となります。便宜上、今回の連載では一文=25円と致します。

身近な物価の例ですと、「夜泣きそば」とも呼ばれた「二八そば」は江戸時代を通して値段も安定していたと言われていまして「二x八=十六で400円」となりますが、物価感覚として如何でしょうか?下の画像は江戸博で展示されている二八そば屋台の復元です。

二八の下の錨マークは「お客が逃げない様に」
という願掛け、横には「大当たりや」とあります

この掲載のテーマ、浮世絵(錦絵)の値段はどうだったかと言いますと、「一枚=二八そば1・2杯」だったと言われていますので、400~800円ということになります。あの歌麿や北斎、広重、写楽がですよ!!

ですので、江戸っ子は飽きるとすぐに捨ててしまった、或いはヨーロッパに輸出する伊万里焼が割れない様にと浮世絵を使ったのですね。これを見てヨーロッパの人はびっくりした、「なんだ、これは!こんな美しい絵を!」、そして日本に来た欧米の人達は沢山買い求め母国に持ち帰ったのです。ある講演で聴いたお話、「現存する江戸時代の浮世絵(錦絵)の半分はアメリカに、残りの半分、即ち四分の一はヨーロッパに、日本には残りの四分の一しか残っていない。世界最大の浮世絵コレクションはアメリカのボストン美術館。」と。

二八そばと浮世絵の価格は意外と現代の物価感覚に近い、或いは信じられないほど廉価、ではその他はどうだったのでしょうか?

江戸博の二八そばの屋台の裏手に「江戸時代後期の物価」というパネルが展示されていますので、そこから幾つか抜粋してみました。銭百文で買えたもの、2500円で買えたものと思って頂き、如何お感じでしょうか?

       ■ (外食)         上鮨          14個(貫)
                             並盛蕎麦      約8杯
                             一膳飯         約7杯 (一合三勺/杯)

       ■ (日用雑貨)      草鞋(わらじ) 8足
                                 手拭(地回り物)    0.8枚
                           (注:地回り物とは江戸で作られたもの)

       ■ (日用食品類)    米            2升4合
                                     大根          8本
                             醤油(地回り物)5合
                             水豆腐               2丁

現代の物価感覚に近い物と、逆に、「えっ!何んでそんなに高いの!?」という物が混在していることにお気付きになったことかと思います。江戸時代の物価が現代よりも安いとか高いとか、とは一概には言えないということをご理解頂ければと思います。

「伝統文化交流協会」のサイトですので、歌舞伎の芝居小屋の入場料を見てみますと、桟敷席が銀20匁(=4万円)、平土間が銀12匁(=2万4千円)でした。江戸時代の歌舞伎の席料は結構高かったことがお分かり頂けると思います。

江戸のビッグビジネスはどうだったでしょうか?
江戸時代の言葉に「日千両(ひせんりょう)」があります。一日に千両(=1億2千万円)を稼ぐ商売のことですが、川柳に「日に千両、鼻の上下にヘソの下」と読まれています。鼻の上にあるのは目、で観るのは歌舞伎芝居小屋、鼻の下にあるのは口、で食べる魚河岸、そしてヘソの下は吉原、のことです。
吉原と言えば高位の花魁の身請け料も千両だったと言われます。勿論、お大名や豪商のお大尽にしか叶わないことだったのでしょうね。

さて、江戸の町の人達にもっとも縁があったのはやはり銭でしょうか?
日本で作られた初めての銭というと私の世代は奈良時代の「和同開珎」と教わりましたが、最近では更にそれ以前の天武天皇の時代の「富本銭」と言われています。ともに真ん中の穴は正方形であることに注目下さい。

683年頃鋳造開始の富本銭
708年頃 鋳造開始の和同開珎









 

江戸時代の初めは中国から輸入した銭が流通していましたが、三代家光公の時代に寛永通宝が鋳造され江戸時代を通して流通しました。以下が三枚の寛永通宝の表と裏の画像です。一番左の寛永通宝は一文銭(直径2.4センチ)、右の二つが四文銭の寛永通宝です。少しずつ大きくなっていますね。また、裏を見るとちょっと変化があることがお分かり頂けますでしょうか?

この違いが極めて「面白い」のです。

銭形平次は野村胡堂作による小説の中の架空の岡っ引きです。時代劇に出てくる岡っ引きや目明しというのはお役人ではなく、奉行所が雇ったあくまでも個人です。岡っ引きが十手(「じって」と読みます)をこれ見よがしに見せるシーンがありますが、あれはあり得ません。岡っ引きが十手を使えるのは捕り物の時合だけであって奉行所から借りて使うことができました。また、十手に赤色の房などが付いていることがありますが、それもあり得ません、房付きの十手は同心以上しか許されませんでした。そう思って時代劇をご家族とご覧になりましたら、「ハナタカ(鼻高)」して下さい(笑)

平次が活躍したのは初期は寛永時代だったのですが、それ以降は後期の文化文政時代(19世紀初頭)に変わっています。平次がピシッと投げて悪党を懲らしめた銭は一文銭ではなく四文銭、それも一番右の四文銭になります。

一文銭は軽すぎてそれほど飛ばなかったと思います。四文銭にしても重さ5グラムほどですので、数メートルしか飛ばなかったのでは、また投げられた悪人が怪我をするほどの力だったかどうかは甚だ疑問ではあります。(「ピシッと」とは誇張です。)また何故一番右の四文銭かと言いますと、

 

寛永通宝は寛永十三年(1636)に鋳造が開始されましたがそれは一文銭でした。江戸は五代綱吉公の元禄時代に好景気を迎えます、いわゆる「花の元禄」です。物価もインフレで高騰したのかと思います。一文銭では持ち歩くのが面倒になったのでしょうか、明和五年(1768)に四文銭の鋳造が始まります。それが真ん中の寛永通宝です。ところが絵柄が少し複雑で一年で製造中止され翌年(1769)から一番右の四文銭に変わります。良くご覧下さい。裏面の波の数が異なっています。二十一波から十一波に減っています。

みたらし団子はこの四文銭の寛永通宝が流通する前までは一本に五粒でしたが、「オヤジ、お代はここに置いておくぜぇ!」と言って一文銭を五枚置いていったのでしょうか?そこに四文銭の寛永通宝が登場すると、「オヤジ、一文銭なんざ面倒臭せぇ、四文銭一枚でいいだろうが、四の五の言うんじゃねぇよ!」とか。団子やのオヤジからしたら商いが二割も減ってしまう死活問題、そこで一粒減らして四粒にしたとか?


江戸の町は江戸湾を埋め立てて造った町でしたので、地下水は塩っぱい、そこで幕府は四代家綱公の頃までに神田上水・玉川上水と言う井之頭(公園)の湧き水と多摩川を水源とした上水道を作って江戸市中まで引き込みました。神田上水・玉川上水は隅田川の西側までで、東側にある本所・深川方面の住民には飲料水が行き届かなくなってしまいます。そこで上水の余水(上水道の水は最終的には川に流れ出てしまいます)の出口(現在の大手町界隈)には「水船」「水伝馬」という船が待っていて、その余水を積んで本所・深川方面に運んで住民に給水したのです。本所・深川には「水売り」が待っていてその水を売り歩きました。

鈴木春信「水売り」


 

水売りは天秤の前後に桶をぶら下げて水を売るのですが、桶一つだけでは売りませんでした、そんなことをしたらバランスが悪くなって残りの桶を運べなくなりますので。そこで前後の桶のワン・ペアで売るのですが、この単位を「一荷(いっか)」と言い、これでお代は四文でした。四文銭一枚で水が買える、その四文銭の裏の模様は青海波、波と水、ぴったりとした符合、それで江戸の町の人達はこの四文銭を「波銭」と呼ぶようになったとか言われています。

ちょっと粋で洒脱な江戸っ子の言葉のお遊びでしょうか?

 




最後にご紹介申し上げるのは、「穴あけ銭の理由」、なぜ穴は□(四角)?

現代の5円・50円硬貨はなぜ〇(丸)?というお話です。現代の5円・50円硬貨の穴が〇である理由は次回の冒頭にご案内差し上げたいと思います。(内容はNHKで以前放映されていた「探検バクモン」で爆笑問題のお二人が造幣局を訪問した時のレポートです。これも製作工程で手間を省く発想が背景にあります。次回の連載まで少しお考え下さい。)今回は銭の穴はなぜ□?についてのご説明です。正確には□でなければならない理由ではなく□の方がベターの理由です。

 下の画像は「枝銭」(えだせん)と言いまして銭を作る工程の最初に作られるものです。粘土状の物で型を作って溶けた銅や鉄・真鍮を流し込んで冷えて固まるのを待ちました。冷えて固まりますとそれを型から取り出します。出来上がりはそうプラモデルの部品の様に見えますね。「枝」の中心の幹の様な部分は「湯道棒」と呼ばれますが、ここからパキン・パキンと折って取り外した銭貨は、その縁にはみ出た余分な部分(「バリ」と呼ばれます)が出来て歪(いびつ)ですので鉄ヤスリで削って、仕上げなければなりません。プラモデルでもプラスチックのバリをカッターナイフやハサミなどで取り除くことと同じです。この時一枚一枚手作業でバリを削ったのでは手間が掛かるので何十枚も角棒に通し、まとめてヤスリ掛けをします。銭貨の穴はその棒を通す為のものですが、丸い穴で丸い棒を通しますと銭が回転してヤスリをかける作業が難儀になりますが、四角の穴に四角の棒を通せば銭が回転せずヤスリがけは容易となります、ということです。日本橋の日本銀行本店の前に日本銀行金融研究所貨幣博物館がありますが、日本銀行はその様に説明しています。詳しくは日本銀行金融研究所貨幣博物館のウェブサイトをご覧下さい。


 

「バリ」

貨幣博物館では現代の5円・50円硬貨についてはなんの説明もしていません。理由は明白で現在製造も使用もされていない銭の話は歴史(過去)ですのでいいのですが、5円・50円硬貨を製造しているのは日本銀行ではなく独立行政法人・造幣局だからです。(よって硬貨には「日本国」とだけ刻印されています。)

 秋もそろそろ深まっている頃でしょうか?食べ物もお酒も美味しい季節になっていることと思います。「天高く馬肥ゆる秋」をお楽しみ下さい。
 
 広小路 俗山人 拝

 

   第1回:「浮世絵で知るお江戸四方山話おもちゃ箱」
 第2回:「いよいよ日本橋を京に向け出立、その前に少し日本橋について」
 第3回:「旅立ちの前に日本橋の三井越後屋さんでお買い物でもご一緒に」
 第4回:「画狂老人・北斎を見る二つの視点:オマージュと画力」
 第5回:「品川宿は月見と寺社巡りの町」
 第6回:「ちょっと一休み、肩の力を抜いて~江戸の女性~」
 第7回:「葛飾応為 天才画狂老人の娘 その[光と影]」
 最終回:「~江戸のお金のお話し:追加の段、
        ~浮世絵師広重 北斎との比べ そして傑作「名所江戸百景」へ~ 」


 

 

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